第10位 岩崎弥太郎

享年 50歳(1835年1月9日~1885年2月7日)
時代 幕末、明治時代
影響 近代化の土台を作る
岩崎弥太郎は三菱の創業者です。初期の頃は海上輸送を収入源としており、明治政府の支援もあり、三菱を日本最大の海運業者に成長させました。
その後、三菱(当時:三菱商会)は、海運業以外にも軍事産業などにも進出し、三菱財閥と呼ばれるようになりました。
また第二次世界大戦時に太平洋戦争で大活躍した「ゼロ戦」や戦艦「武蔵」の軍事兵器も三菱が製造しました。
このように、三菱は日本の貿易に貢献した半面、軍需産業で日本を戦争に進めてしまった企業と言えます。そのため、岩崎弥太郎が設立した三菱財閥は日本の歴史に大きく影響を与えたといえます。
参考:ウィキペディア「岩崎弥太郎」
土佐の人物伝「岩崎弥太郎 伝」
幕末維新風雲伝「岩崎弥太郎とは~土佐の貧乏郷土から三菱財閥創業への道」
第9位 聖徳太子

享年 48歳(574年2月7日~622年4月8日)
時代 飛鳥時代
影響 律令制度を整える
聖徳太子は推古天皇の摂政として政治改革を行いました。中学の歴史にも出てくるように、「冠位十二階」「十七条の憲法」といった改革を行い、役人の人事制度を整えました。
また法隆寺を建設したり、小野妹子を隋に派遣することで、当時最先端の中国の大陸文化を取り入れるなどしました。
そのような聖徳太子ですが、最近では聖徳太子は実在しなかったのではないかと言われています。なぜなら、数々の政治改革をとても一人で実施したとは思えないからです。
ただ、古代の日本の官僚制度をきちんと整備したからこそ、きちんとした国造りが行えたと思われます。そのため存在自体が少し怪しいですが、聖徳太子は古代の日本を整備した重要な人物であると言えます。
第8位 北条政子

享年 68歳(1157年~1225年8月16日)
時代 平安・鎌倉時代
影響 武士の時代の到来
北条政子は源頼朝の妻であり、承久の乱の際には「尼将軍」とも呼ばれました。また鎌倉幕府の危機を救った人物でもありますが、源実朝(さねとも)や源頼朝を暗殺した疑いもあります。
承久の乱の際には、全国の御家人に対して朝廷側ではなく、今までの恩返しのつもりで幕府側につくように説得しました。北条政子の説得もあり、幕府側が勝利しました。
また息子の源実朝の暗殺や源頼朝の暗殺に関わっているとされています。そのようなこともあり、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることに成功しました。
参考:ウィキペディア「北条政子」
大人になってから学びたい日本の歴史「北条政子とは!簡単にわかりやすく紹介【尼将軍の名演説とその生涯】」
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)「母・北条政子から嫌われて?暗殺された2代将軍源頼朝の悲劇」
第7位 藤原兼家

享年 61歳(929年~990年7月26日)
時代 平安時代
影響 天皇の権力を摂政に移動させた
藤原兼家は策略によって、花山天皇を出家させることに成功し、娘が生んだ一条天皇を即位させることによって摂政になり、政治を動かしました。
藤原兼家は、政治の実権を天皇家から摂政に移すことに成功しました。今までも摂政が権力を持っていましたが、それを決定的なものにしたのが藤原兼家です。
子孫である藤原道長が平安時代に権力を持つことができたのも、藤原兼家のおかげであるといえます。
第6位 明智光秀

享年 不明(?年~1582年7月2日)
時代 戦国時代
影響 信長の天下統一を阻止
明智光秀は織田信長の家来であり、本能寺の変の首謀者です。明智光秀によって織田信長の天下統一は実現しませんでした。
1582年に明智光秀は、織田信長が宿泊していた本能寺を急襲して、織田信長を自害に追い込みました。しかし、織田信長の遺体は見つかっていません。織田信長の天下統一を阻止することに成功しました。
しかし、織田信長の訃報を聞いた豊臣秀吉によって、「山崎の合戦」によって敗れ、落ち武者狩りにあって亡くなりました。
織田信長が天下統一を果たしていたら時代は大きく違ったと考えられます。そのため、歴史において明智光秀は、重要な人物であるといえます。
第5位 中大兄皇子(天智天皇)

享年 45歳(626年~672年1月7日)
時代 飛鳥時代
影響 天皇制を完成させる
中大兄皇子(天智天皇)は、645年に中臣鎌足と協力して、蘇我入鹿を暗殺しました。その結果、蘇我氏の朝廷の支配を終わらせることに成功しました。
蘇我入鹿が暗殺された事件は、「乙巳の変」と呼ばれます。また新政権発足のために行った改革を「大化の改新」をいいます。
また朝鮮半島の百済再興の遠征軍を支援するため、662年に唐・新羅の連合軍に挑みますが(白村江の戦い)、敗退します。その後、国防のために九州地方に防人や城などを設置し、警備を強化しました。
第4位 徳川家康

享年 73歳(1543年1月31日~1616年6月1日)
時代 戦国・江戸時代
影響 太平の世の長期政権
徳川家康は1600年の関ケ原の戦いに勝利した後、江戸幕府を開きます。265年間もの間、安定した時代を築き上げたので、日本文化の発展に貢献しました。
徳川家康は1600年の関ケ原の戦いの際に、東軍側の代表として戦いました。戦争当初は少し劣勢でしたが、小早川秀秋の裏切りなどがあり、東軍が勝利することができました。
徳川家康は江戸幕府を安定させるために、様々な政策を行いました。具体例として、大名が城を持つ数を制限したり、藩主を1年ごとに江戸に参勤交代させるなどが挙げられます。
第3位 坂本龍馬

享年 31歳(1836年1月3日~1867年12月10日)
時代 幕末
影響 日本の植民地化を防ぐ
坂本龍馬は対立関係のあった薩摩藩と長州藩を提携させることに成功しました。それが討幕運動の基になり、外国の植民地化を防ぎました。
1866年に坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介役となり、対立関係にあった薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允が薩長同盟を結びました。
また1867年に土佐藩の山内豊信を説得して、大政奉還を実現しました。しかし、同年に近江屋事件が発生し、中岡とともに坂本龍馬も暗殺されます。
第2位 徳川家光

享年 46歳(1604年8月12日~1651年6月8日)
時代 江戸時代
影響 鎖国体制の完成
3代将軍徳川家光は徳川家康の次男です。キリスト教の拡大を恐れ、オランダとポルトガル、中国以外の国との貿易を禁止する鎖国を完成させました。
豊臣秀吉のバテレン追放令や、徳川家康によるキリシタンの国外追放といったような鎖国に近い政策などは以前にもありました。しかし、鎖国制度を完全に完成させたのは徳川家光です。
オランダやポルトガルはキリスト教国ではありましたが、プロテスタントであったことや、中国はそもそもキリスト教とはあまり関係ないので貿易が許されました。
ペリー来航まで250年近く鎖国体制を続けたので、列強から日本を守ることにつながったとも、日本の近代化が遅れた原因であるとも言われています。
参考:ウィキペディア「徳川家光」
Laudate「日本のカトリック教会の歴史」
第1位 吉田茂

享年 89歳(1878年9月22日~1967年10月20日)
時代 明治・大正・昭和時代
影響 戦後改革を進める
吉田茂は戦後の内閣総理大臣として、現代の民主主義の制度を整えた人物です。GHQのマッカーサーの信頼も厚く、戦後の復興を早めました。
吉田茂はマッカーサーと対等に話をすることができた唯一の日本人であり、マッカーサーに対してジョークを言える度胸がありました。
また吉田茂は1951年にアメリカなどの連合軍とともに、サンフランシスコ平和条約を締結させたり、日米安保を実施するなど現代日本の基礎を作りました。
また1965年、1966年、1967年にはノーベル平和賞の候補者になっていることが知られており、日本を戦争のない国に導いた人物であると言えます。
参考:ウィキペディア「吉田茂」
iRONNA 毎日テーマを議論する「吉田茂はどうやって気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか」