【衝撃】世界の大金持ちランキング(第6位~第10位)

ランキング順位

【衝撃】世界の大金持ちランキングトップ5では第1位~第5位を取り上げました。
第1位 チンギス・ハーン
第2位 神宗
第3位 アクバル大帝
第4位 アウグストゥス・カエサル皇帝
第5位 キング・ソロモン

この記事ではでは第6位~第10位までを取り上げます。
第6位 マンサ・ムーサ
第7位 ジョン・D・ロックフェラー
第8位 アンドリュー・カーネギー
第9位 ニコライ二世
第10位 ヤコブ・フッガー

第6位 マンサ・ムーサ (約46兆円)

推定資産:約46兆円(約4150億ドル)
大金持ちになれた理由:マリ帝国を支配し、金鉱山を所有していたから。
享年:不明(誕生年不明・1337年?に死去)
時代:鎌倉時代

マンサ・ムーサは、マリ帝国の9代目の王。在位:1312年-1337年?。アラビア語の文献には、マンサー・ムーサーの名で記録される。1324年の派手なメッカ巡礼で著名である。巡礼の帰途、立ち寄ったマムルーク朝治下のカイロで、金相場を下落させるほど大量の金を惜しみなく分け与えた。

この王の時代からマンサ・スレイマン(在位:1341年-1360年)の時代までにマリ帝国は最盛期を誇った。現在の価値にして約4000億ドル(約35兆円)という人類史上最高の総資産を保有した。

ウィキペディア「マンサ・ムーサ」より一部引用

マンサ・ムーサはアフリカのマリ帝国の9代目の王です。マリ帝国は現在の西アフリカに位置する、マリ共和国付近で栄えたと言われています。

その当時のマリ帝国は世界の金産出の半分以上だったと言われており、サハラ砂漠を超えた交易によって北アフリカに送り出していました。

マンサ・ムーサは敬虔なイスラム教徒でした。そのため、数万人規模の部下を引き連れてメッカ巡礼を行いました。その際に旅費として大量の金を奉納したそうです。またメッカ巡礼の際には、1万2000人の奴隷に1本ずつの金の延べ棒を運ばせたそうです。

またメッカ巡礼の途中に訪れたカイロでは、莫大な黄金がばらまかれました。その結果、金相場が大暴落し、10年以上もインフレーションが続いたと言われています。

第7位 ジョン・D・ロックフェラー  (約41兆円)

推定資産:約41兆円(約3670億ドル)
大金持ちになれた理由:アメリカの石油業界を独占した石油王だから。
享年:98歳(1839年に誕生・1937年に死去)
時代:幕末から昭和初期

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。スタンダード・オイル社を創業し、同社は石油市場を独占し、アメリカ初のトラストを結成した。

石油業界を変革し、現代的フィランソロピーの構造を定義し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールした。1870年にスタンダード・オイルを創業したロックフェラーは、積極的な経営を行い、その後1897年に事実上引退した。

慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設した。

ウィキペディア「ジョン・ロックフェラー」より一部引用

ジョン・D・ロックフェラーはアメリカの石油王として有名です。ロックフェラーが石油王に君臨できたのは、アメリカの石油トラストで成功したからです。

ロックフェラーは「スタンダード・オイル・トラスト」を結成し、数々の石油業者を加盟させることに成功しました。その結果、アメリカの石油の大部分を支配し、石油の販売価格を自由に設定できる支配力を持つようになりました。石油の利権を完全に支配したことによって、莫大な富を築くことができました。

またその莫大な富で設立したロックフェラー財団は、慈善事業団体として知られており、多数の大学や研究所に寄付を行っています。

第8位 アンドリュー・カーネギー (約37兆円)

推定資産:約37兆円(約3370億ドル)
大金持ちになれた理由:鉄鋼業界を支配し、莫大な富を築いたから。
享年:83歳(1835年に誕生・1919年に死去)
時代:幕末から大正時代

アンドリュー・カーネギーは、スコットランド生まれのアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。

スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業だった鉄道への投資で築いた。

1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。

カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。

ウィキペディア「アンドリュー・カーネギー」より一部引用

アンドリュー・カーネギーは、鉄鋼王と呼ばれています。カーネギーは1889年にカーネギー鉄鋼会社を設立しました。南北戦争の鉄鋼ブームや早い時期にイギリスからベッセーマ製鋼法を採用しました。、製鉄分野で成功することができました。アメリカの鉄鋼の4分の1を生産していたそうです。

またカーネギーは、貧しい田舎の少年から石油王になり、億万長者になりました。そのため、アメリカンドリームを成し遂げた男として知られています。カーネギーは鉄鋼事業だけではなく、炭鉱や船舶、鉄道などの事業を買収しました。

その後、カーネギーは慈善家として教育・学術・社会事業に寄付しました。またカーネギー財団を設立し、カーネギーホールなどの建物を建てました。

第9位 ニコライ二世 (約33兆円)

推定資産:約33兆円(約3000億ドル)
大金持ちになれた理由:帝政ロシアの皇帝だったから。
享年:50歳(1868年に誕生・1918年に死去)
時代:明治時代初期から大正時代

ニコライ2世は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 – 1917年3月15日)。日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。

東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強く、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。

ウィキペディア「ニコライ2世」より一部引用

ニコライ二世はロマノフ王朝の最後のロシア皇帝です。東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を破った日露戦争は有名ですが、その時のロシアの皇帝がニコライ二世です。

また第一次世界大戦の際には、連合国側としてドイツと対戦しました。第一次世界大戦の後半には、ロシア帝国は女性や子供を総動員して戦争に協力させたため、国内がとても疲弊していました。

またニコライ二世はラスプーチンと呼ばれる祈祷師に依存しており、ラスプーチンがらみの事件も発生していました。そのため、ロマノフ王朝に不満を持つ市民らが暴動を起こし、臨時政府によってニコライ二世の家族は監禁されました。その後、革命政府によってニコライ二世を含めた家族は処刑されました。

ニコライ二世は晩年は悲惨な最期を遂げましたが、ロシア皇帝としてロシア全土を支配していたことは確かです。またロマノフ王朝は300年以上にわたり、ロシアを支配していました。

そのため、ロマノフ家は巨万の富を築くことができ、ロシア帝国が管理していた金庫にはたくさんの宝石や貴金属があったと言われています。しかし、革命政府がそのような貴重な宝石類などを革命資金にするために換金してしまいました。その結果、一部の宝石類などは行方不明のままです。

また「琥珀の間」と呼ばれる部屋がエカテリーナ宮殿にありました。この「琥珀の間」は革命政府は換金をしませんでした。しかし、第二次世界大戦時にナチスによる宮殿内での略奪にあってしまいました。その結果、「琥珀の間」のありかはいまだにわかっていません。そのため、どこにあるのかいまだ謎のままになっています。

第10位 ヤコブ・フッガー (約30兆円)

推定資産:約30兆円(約2770億ドル)
大金持ちになれた理由:銀山経営や金融業で巨万の富を得たから。
享年:66歳(1459年に誕生・1525年に死去)
時代:室町時代後期から戦国時代

1473年、神聖ローマ皇帝よりユリの紋章を授与されている。1485年銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。1490年、銀山のあるティロルの領主がマクシミリアン1世となった。これをきっかけにヤーコプは神聖ローマ皇帝と結びついた。ヤーコプはスペイン国王やローマ教皇の御用銀行でもあった。

1517年の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するためでもあった。1519年、カルロス1世に選挙資金を貸し付けた。カルロスはフランス王を抑えて皇帝に選ばれた。ヤーコプは、カルロスの支配するナポリ王国の収入の一部や、レコンキスタ完了後に国有化の進んだスペイン騎士修道会所領の地代収入から債権を回収した。

しかし、新大陸などから大量の銀が流入しヨーロッパ鉱山の経営が悪化した。顧客であるスペイン王室等の王侯が戦争で貸付金を踏み倒すようになった。またアントウェルペン支店支配人エルテルがアントーンの指示に従わず、スペイン王室からの債権回収に失敗して多額の損失を出している。これらはフッガー家の当主が各支店を制御できなくなりつつあることを示すものであった。

このスペイン王室、そしてフランス王室からの支払停止は国際的な経済にも影響を及ぼし、フッガー家衰退の大きな要因となる。

ウィキペディア「フッガー家」より一部引用

フッガー家は中世ヨーロッパの銀行業を支配していました。また銀山を経営していたため、巨万の富を築くことができました。ヤコブ・フッガーは国王や教皇庁に対して貸付業務を行っていたため、国際銀行の役割を果たしていました。

しかし、貸付金を踏み倒されたり、銀行が大きすぎたことによる統制が取れなくなっていきます。さらに追い打ちをかけるように、南アメリカから大量の銀が流入したことにより、銀の価格が大幅に下落します。その結果、銀行業や銀山経営がうまくいかなくなり、フッガー家は衰退していきます。

このようにヤコブ・フッガーは金融業と銀山経営でヨーロッパを支配できるほど、巨万の富を得ることができました。そのため、ルネサンス時代には芸術文化の担い手になることができました。

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